現在教員をしているWebmasterも、一度は予備校生をしていた。始発電車で通うようにしたものの、夜早く寝なければならないので予習の時間を削らねばならず、かといって始発電車の座席は狭く、何かの作業するには少々難があった。
そこで次なる作戦に出た。ちょっと出費があるが効果絶大であった。それは、通勤ライナーに乗るという作戦だった。お値段300円也。始発電車で和歌山駅まで来ると、そこには「はんわライナー」なる列車が待っていた。今はずいぶん本数が減らされてしまったようだが、20年前の当時は朝は数本運行されていた。
この「ライナー」であるが、特急列車用の車両である。天王寺から白浜温泉や勝浦に向かう特急列車の車両は、大阪南部の車庫から回送されてくる。朝のラッシュ時、混んだ電車の合間にガラガラの回送列車がホームで待つ人々の目の前を通過してゆくのは精神衛生上よろしくない。それなら乗せてしまえ、というのが通勤ライナーの元々の発想である。
300円かかるが、定員分しか整理券を売らないので確実に座れる。しかも、始発の和歌山駅から乗る客には特典があった。グリーン車も開放されているので、早い者勝ちで乗ることができた。広々とした足元。ゆったりと車内で予習して大阪へ。ご丁寧に車内販売まであった。
首都圏の電車にはグリーン車がついていることが多いので、多少の出費を覚悟すれば着席できる可能性はある。ところが、大阪近郊の路線では、お金を出す気になっても、確実に着席できるサービスを提供している例は少ない。近鉄特急と南海電車ぐらいなものかな。立ちたくなければ自家用車で、ということになってしまいかねない。
写真は、「はんわライナー」で使われていた車両
4月28日、日本初の(走っている電車が全部低床式の)LRT、開業である。富山ライトレール。
お世話になっている先生から「開業式典に来ています。三年前にWebmaster君に描いてもらったダイヤがもう実現です。」というメールをいただいて気がついたのだが、本日開業式典、明日一般営業開始である。もうちょっと先と思っていたら、気がついたらもう開業している。・・・と同時に、すっかり他人事気分だったが、そういえば富山港線LRT化のことを考えたことがあったことを思い出した。
富山駅北口〜岩瀬浜間24分・・・言われてみれば、旧富山港線の最速列車は17分、4駅追加で4分追加、路面区間は余裕を見て各駅間1分づつ追加で3分追加、全線で24分と答えたことがあったような、無かったような・・・。
今日はあんまり時間がないので、近々、結局実際にはどうなったのか検証してみよう。
写真は、左が完成予想図、右が完成後
現在教員をしているWebmasterも、一度は予備校生をしていた。最初のうちは大阪の寮で暮らしていたが、たまり場になって勉強できなくなったので4か月ほどで和歌山に退却した。
和歌山から大阪といえば、まぁ敢えて言うまでもないが大阪でも指折りのメジャーな通勤路線である阪和線に乗らなければならない。当然朝のラッシュ時の混み具合もすさまじい。首都圏の中央本線の快速線と並んで、正真正銘の過密通勤電車である。
ところが、Webmasterは和歌山駅ではなく、紀勢線という路線の和歌山から30分ほど南の駅から通わなくてはならなかった。当時昼間は阪和線直通の天王寺行きが1時間に1本ずつあったが、予備校の始業に間に合う時間帯は直通が無く、和歌山駅で乗り換えであった。そのまま乗り換えたのでは和歌山駅でスタンバイしていた通勤客に当然負ける。負ければすさまじいラッシュで、予備校に着く頃には一日の気力を使い果たしてしまう。そこでとった対策が今回の方策である。
この方策以降、Webmasterは座って通った。ウソではなくてほんとの話。和歌山駅で長時間”スタンバイ”して「当駅始発」電車を待ったわけではない。ではどうしたかというと、正真正銘の「始発」に乗ったのである。
ラッシュアワー時は田舎の路線から日本指折りの過密路線への直通はなくなるが、その時間帯の前なら直通はあった。紀勢本線大阪方面への始発電車。これなら最寄り駅から天王寺駅まで座って行けた。
ただし、「始発」である。朝が早い。乗ってしばらくすると夢の中。通学終盤には、天王寺駅構内の分岐器をがたがたと渡る振動を自動的に関知し、睡眠時間の最大にする能力を獲得した。この「始発電車」作戦の難点は夜早く寝なければならないので予習の時間を削らねばならないことであったが、始発電車の座席は狭く、電車の中で作業するには少々難があった。これも座る技術としては初級である。
写真は、その「始発電車」で使われていた車両
今日も何事もなく、同志社前行きの快速電車は、10時頃に家の前を通過してゆきました。
現在教員をしているWebmasterも、一度は会社員をしていた。最初のうちは東京の本社で研修があり、4か月ほど京浜東北線で通勤していた。
京浜東北線といえば、まぁ敢えて言うまでもないが日本でも指折りのメジャーな通勤路線である。当然朝のラッシュ時の混み具合もすさまじい。朝だけでなく、夜も深夜も混んでいる。さすが首都の通勤電車である。
ところが、この混んでいる通勤電車で急ぐ日でない限り、Webmasterは座って通勤していた。ウソではなくてほんとの話。大船とか磯子とか桜木町とかで並んで電車を待ったわけではない。通勤経路は東京都の南西の端の蒲田駅から東京駅の北隣の神田までである。単に電車に乗るだけでは当然座れない。
この蒲田駅、実は北行きの線路と南行きの線路の間に東京方面からの折り返しの電車用のホームがある。このホームから朝のラッシュアワー時でも、数本の「当駅始発」電車があり、これをねらえば座れる。みんな急いでいるので、出発待ちの電車には目もくれず、先に出発する満員の電車に果敢に飛び込んでゆく。
ただし、この「当駅始発」電車にも難点がある。電車の運行状況が乱れると、出発が後回しになることがあるのである。あまり急がないなら、東京でも座ることができる。まぁ、座る技術としては初級である。
写真は神奈川県下の鶴見線
先週土曜の京都からの帰りのことである。近鉄で南下して新田辺で降り、徒歩で京田辺駅に22時ちょうどに着いた。時刻表を見ると、次の京橋方面行きは22時16分発である。1本前の電車は5分ほど前に出発したばかりのようであった。まぁ、夜遅い時間帯にさしかかってきているので、少々待たなければならないのは仕方あるまい。缶コーヒーを飲んで、既にホームにとまっている電車の中でしばらく待つ。
乗った電車は京橋方面新三田行きの快速電車なので、Webmasterの降りる小駅には停まらない。松井山手駅か長尾駅で後続の各駅停車に乗り換えなければならないが、階段を上り下りしなくても乗り換えのできる長尾駅で乗り換えるのが習慣である。長尾駅で降りて数分待つと各停がやってくる。
ところが、長尾駅に降りて次の各停の時刻を確かめると、目を疑いたくなった。17分待ち。快速の到着が22時26分で、各停の出発が22時43分である。結局、最終目的地で降りたのは22時50分頃であり、京田辺駅からわずか9.4kmの移動に、待ち時間込みで実に50分ほどを要した。直線距離なら7キロほどにしかならない距離である。
この乗り継ぎパターンの待ち時間は、以前は7〜8分程度であったが、ダイヤ改正後は短くて9分、長くて17分のようである。今回は最悪パターンにあたったようだ。ダイヤ改正の主旨は安全優先のようなので、その目的自体に異議はないが、もうちよっと工夫がほしいところである。単線区間があったりする関係でいろいろと事情はあるのだろうが、数キロの移動に1時間弱では時速10キロ程度であり、余りにもひどい。都心の朝の渋滞並みかそれ以下である。
JR学研都市線(片町線)は、大阪の通勤鉄道である。したがって、基本的には対大阪都心への利便性が優先される。列車ダイヤの設定も大阪都心方向への快速列車の利便性が優先されている。だが、これは基本的には朝からせいぜい夕方のお話である。夕方遅い時間帯から夜間に快速列車で都心に向かう人は少なく、むしろ沿線の利用者の下駄代わりの使い方が主になる。都心速達の快速サービスに縛られる必然は少ないので、型どおりのサービスでは便利にならない。
今回のダイヤ改正、どうやらWebmasterの近所では京都方面へは極めて不便になったとの評判である。上の土曜日の例も、あとで調べてみると京阪電車で枚方市までやってきて、交野線に乗り換えるという方法で30分近く早く家にたどり着けたようである。おそらく、だんだんと京阪電車の方が便利だという口コミが広がってゆくのだろうと思う。我が家から京都タワーは見えてるんだけどなぁ・・・
カナダにいた時のお話。滞在していた町には小型飛行機用の小規模な空港敷かなく、実質的な最寄りの空港は約150キロ先のトロント空港であった。クルマ社会の北米では、空港まで自家用車があたりまえであり、それについては、バレット・パーキング(パーク&ライド編)にも少し書いた。
ところが、北米といえども空港まで自家用車で行けない場合もある。日本やヨーロッパの空港のように鉄道アクセスがあるわけでもなく、トロントからの路線バスはあるものの、150キロ先の都市とを結ぶバスはない。かといって、タクシーで行くには、いくら日本より安いとはいえ150キロはちょっと遠い。
じゃぁ、どうやって空港に行くかというと、乗り合いタクシーシステムが発達しているのである。日本でも例えば関西国際空港へアクセスする乗り合いタクシーがあるが、ほぼ同じシステムである。
空港へ行く場合は、あらかじめ電話で予約し、乗車日とフライト時刻を伝えておくと自宅の玄関まで迎えに来てくれる。逆に空港からの場合は、右の写真のようなカウンターで、行きたい場所を告げる。同じ都市に向かう何人かが集まって、左の写真のようなマイクロバスのような自動車一台分になると出発。運が良ければ「あなた達はラッキーだ。もうすぐ出発できそうだ。」と告げられるし、そでうなければカウンター近くの待合いシートで、客が集まるのをじっと待つことになる。出発時刻の保証はないが、カナダ人はそんなことではカリカリしない。
もちろん、自宅の玄関まで送ってくれる。乗客全員の自宅に立ち寄るので、最後の客はずいぶん時間がかかる。乗り合いタクシーというか、路線タクシーというか、デマンドバスのようでもある。公共交通と個別交通の中間のような交通機関で、パラトランジットと呼ばれることもある。値段は路線バスよりは高いが、タクシーよりは安い。カードOK。
カナダから帰国する際は、すでに自家用車がなかったので「Park & Fly」は使えなかった。さらにこの「Airways」に乗るには荷物の量が多かったので別の奥の手を使ったのだが、それについてはまた別の機会にお話しすることにしよう。
左の写真そのものは、「Park & Fly」の駐車場と空港を結ぶマイクロバスだが、乗り合いタクシーのエアウェイズも同様の車両を使っている。違いは、車体に「Airways」と書いていることくらい。
以前からずっと疑問に思っていることがある。駐車場付きのショッピングセンターへ入ろうとする自動車のせいで、周辺の道路がひどい渋滞になることがある。自動車の運転自体は、ドライバーが国家試験で得た免許証に基づいてしていることなので、天下の公道上で車をのろのろ運転させたり停車させたりすることはドライバーの責任なのだろう。
ところが、ショッピングセンターを設置する際には、必ず、周辺の交通状況に悪影響を及ぼさないかどうか検討しており、悪影響が出る場合には何らかの対策を講じた後に開業しているはずである。
にもかかわらず、実際に開業すると駐車場待ちの列が公道上に延びて、交通の流れを妨げているケースが少なからず存在している。交通が滞るところまで行かなくとも、追突の可能性や横断する歩行者の発見を遅らせてしまうなどの危険な悪影響を及ぼしているケースも多そうである。
ということは、開業前の周辺の交通状況に対する事前の見積が甘かったか(過失)、あるいは意識的に過少見積もりだったか、ということになるのだが、いずれにせよまずい事態である。
天下の往来を妨げている原因がショッピングセンターであることは一目瞭然なことが多いが、往来妨害罪とか往来妨害幇助罪とか(そんな罪名があるのかどうか知らないけど・・・)そういう罪に問われたという話は聞かない。周辺住民やその道路の利用者が声を上げれば立件可能なような気もするが、住民も利用者も何も疑問に思わなくなるほどどっぷりクルマ漬けなのだろうか。
この話、以前から折に触れてしゃべってたので、とある大学のとある先生が大規模な小売店の駐車場待ちの問題を取り扱う会議で、「こんなことを言ってる人もいますよ・・・」と、紹介したことがあるらしい。
Webmasterが通勤に使っているのはJR学研都市線である。大阪環状線の京橋から東へ向かい、生駒山にぶち当たりそうになったら北東へと向きを変え、そのまま生駒山系を避けるように北を回って、京都府南端の木津に至る。歴史は古いのだが、今やマイナー通勤路線であり、沿線に用事でもない限りまず乗らないような路線である。
10年ほど前に、尼崎と京橋をつなぐJR東西線ができてから、運転本数が増えるとともに、終電の時刻も遅くなるなど、サービスレベルがずいぶん上がった。ところが、である。先月のダイヤ改正では、あれ?、と思うような変化が見られる。
JR学研都市線は、例の大事故のあった路線と直通運転する路線なので、今回のダイヤ改正では所要時間が少し延ばされるなどの変更があった。それ以外は目立った変化はないように思われたのだが、重要な大きな変化があった。
それは、初電がおそくなり、終電が早くなったのである。それぞれ、約10分ずつではあるが、確かに変化した。都市交通では運転本数もさることながら、この初電・終電がいつなのかというのが、サービス水準の大きなポイントでもある。そんなわけで、初電・終電は長い歴史を経てもほとんど変えないことが多いのだが、それが変わってしまった。
初電・終電に乗る機会そのものは、そんなに多いわけではない。ところが、遠方に出かける場合は、初電・終電に結構お世話になる。今回のわずか10分ほどの変化でも、新大阪発着の新幹線の始発便、最終便への接続ができなくなったようであり、遠方への利便性は確実に低下した。
例えば、東京方面から最終ののぞみ号で新大阪駅に着くと、うまく乗り換えれば、京橋駅へは00時10分ごろに着く。京橋に00時10分頃に着けば、最終の松井山手行き各停に間に合った。ところが改正後は京橋に着いたら、すでに最終松井山手行きは出た後である。
この原因は、まぁ、いろいろあるわけだが、学研都市線の場合、電車の車庫が郊外ではなく、大阪市の隣の東大阪にしかないというのが効いているように思える。通勤電車の車庫は、住宅地の郊外化に伴ってこれまで郊外の始発駅近くに移転するケースが多かった。京阪電車の森口車庫が寝屋川へ、阪和線の鳳電車区が日根野へ、等々、近畿地方でもいくつかあげることができる。ところが、学研都市線の車庫は昔も今も京橋駅の近くである。厳密には都島区から東大阪へと少し郊外側に移動しているのだが、放出駅が最寄りなので、あんまり変わっていない。
そんなわけで、何本かの電車は始発駅のホームや数少ない留置線に置かれて早朝の電車となるのだが、基本的には深夜の電車は郊外の駅まで営業運転したあと放出駅まで回送されるし、早朝の電車も放出駅から郊外の駅まで延々と回送されてくる。そうすると、回送電車は自動運転ではないので乗務員が必要であり、乗務員の労働条件を緩和して安全を確保するには、初電・終電の変更もやむなし、ということになったのではないかと思う。
頭ではそういう理解をしてはみるが、しかし、もうちょっと何とかならないかなぁ。とほほ。
(追伸)ついでに、終電近くの電車は快速電車と普通電車が統合されて区間快速になってしまった。本数を減らしながら実質の利便性を確保しようとしているのだが、途中の弱小駅から乗ると乗り換えしないといけなくなってしまった。疲れて早く帰りたいときに乗り換えは面倒だなぁ。とほほ。
Webmasterは紀勢本線沿線住民であった。紀勢本線は紀伊半島の海岸に沿ってクネクネと走る路線であり、曲線が実に多い。単に曲線が多いというだけでなく、大きな山脈状の地形があったり、大きな川があったりすると、長いトンネルや長い橋梁を避けるように路線が敷かれる傾向にある。この曲がりくねった線形と、冬の夜の特定の気象条件が重なると、実に不思議なことが起こるのであった。
Webmasterの実家はこのへんにあった。冬の夜遅く、受験勉強をするふりをしながら、MBSのヤングタウンを聞いているとき、ふとかすかに汽車の音が聞こえてきた。この列車は、大阪の天王寺を23時に出発して夜を徹して紀伊半島をまわり、朝5時に和歌山の東端の新宮に達するというものであった。ヒゲを生やした青い電気機関車の後ろには、荷物車と数両の客車、それから古い寝台車がくっついていた。電気機関車になる前は、新宮から先、三重県内を北上して名古屋まで運転されていた。
和歌山県下のかなり高齢のお年寄りにとって、名古屋は新幹線で行くところではなくて、夜行列車で行くところというイメージがあるようである。
田舎の冬の夜であるので、列車の走行音はもちろん、1Kmほど先の下津駅に着いたときの構内アナウンスまで聞こえる。しばらくすると、ピィーッという汽笛を鳴らして出発。駅の西側にあるトンネルに入る前にもピィーッと鳴らす。
その後さらに2〜3分すると、また微かにピィーッと音がする。冬の寒い空気がレンズのような役割をして、遠くの音が空に上がって山を越え、また地上におりてくる。どうやら次の初島駅を出発したようだ。
さらに2〜3分すると、また微かにピィーッと音がする。箕島駅を出発する音だ。さらに2〜3分すると、微かに列車の走行音が聞こえ、しばらく後にまた、ピィーッと音がする。時刻的には、紀伊宮原駅を出発する音かな。
最寄りの下津駅から紀伊宮原駅までは、線路に沿うと10Kmほどもあるのだが、直線距離は3.6Kmくらいしかない。初島駅も、箕島駅も直線距離は3.6Kmくらいだ。列車の走行音が聞こえたあたりは、3Kmを切っている。つまり、10分以上かけて、この列車は山の外側を回り込んでわずか3Kmほど先に達したに過ぎない。
この線路は今ももちろんあるが、希少価値のあった寝台車付きの夜行列車は時代の波に勝てず、今は途中の紀伊田辺で運転打ち切りである。古い客車列車は白くてきれいな電車になった。いっぽう、自動車の走る道路はこんな回りくどい線形を避けてWebmasterの郷里を避けるように長いトンネルで南北にまっすぐにバイパスしている。鉄道の方が風光明媚だが、スピードに勝ち目がないのは明白である。
関西国際空港ができる前のお話である。泉州沖にできるこの空港は、本格的な鉄道アクセスが開港当初から準備されることが売り文句でもあった。南海電鉄とJRが乗り入れ、南海電鉄は難波から特急と急行が、JRは天王寺と難波から快速電車が、京都と新大阪から特急電車がそれぞれ乗り入れることになっていた。(その後、JRの特急の始発は京都にそろえられ、最近は草津や米原始発というのもできたようである。)
さて、南海とJRの快速電車についてはさほど問題がなかったのだが、京都発着の特急電車の経路にちょっとした問題が発生したようであった。これについて、とある大学のとある先生に鉄道会社から相談があったようで、ある時、そのとある先生からこんな相談を受けた。
先生 | 「Webmaster君、こんど関空アクセスの特急が京都発着することになったんだけどさぁ、ちょっと問題があるみたいなんだ。」 |
私 | 「何ですか?」 |
先生 | 「京都シティーエアターミナルというチェックインカウンターを京都駅に設置する関係で、特急を一番北側の山陰線のホームから発着させないといけないんだ。」 |
私 | 「えぇ、それで、何が問題なんですか?」 |
先生 | 「そうすると、関空から到着する場合は西側から来るので、東海道本線の複々線の一番北側の線路を走ってくるから、そんなに問題はないんだけど、出発するときが問題なんだ。西向きに走る特急が走る線路は一番南側の線路なので、京都駅の構内に渡り線つけて複々線の線路を全部ふさいで、ゴリゴリと端から端まで移動しないといけないらしいんだ。」 |
私 | 「なるほど」 |
先生 | 「列車の少ない駅ならともかく、京都駅で1時間に1〜2回も複々線の線路を全部ふさぐわけにいかないし、かといって、立体交差にするには工事が大規模になってしまうので、困ってるらしいんだ。」 |
私 | 「なるほど。でも、それ、たぶん、工事しなくても、大丈夫ですよ。」 |
先生 | 「どうするの?」 |
私 | 「東海道本線は複々線の線路4本が基本ですけど、実は京都駅の西側は梅小路の貨物駅や向日町の電車基地がある関係で、線路が5本あるんですよ。5本目の線路は京都駅の南側からアンダーパスで北側に抜け、梅小路の貨物駅をとおって桂川を渡り、その西側で本線をオーバーパスでまたいで向日町の電車の基地に入ってます。貨物駅構内の配線とか、特急が走れるのかとかはわかりませんが、これを使えばいいんですよ。」 |
先生 | 「ほぅ」 |
私 | 「京都駅の山陰線のホームを特急が出発したら、そのまま山陰線をちょっと走って、梅小路の貨物駅に入り、梅小路の貨物駅からあとは、今説明した線路を通って電車の基地の手前まで行きます。ここまで来れば、あとは本線に出るには分岐器つければすぐです。あとは、白浜温泉に行く特急列車と同じ経路を走れば関空に行けます。」 |
しばらくして、駅構内などで工事が始まり、関空開港と同時にこの経路で列車が走り始めた。たぶん、鉄道会社の社内でも同じような案はあったのだろうが、外部からは想像できないような理由で採用しにくかったんじゃないかと思う。”大学の先生がそういうなら、その案で行くか”となったのではないかと思うが、その案を伝えたWebmasterは当時は単なる会社員であった。
趣味雑誌等で時々、マニアックな経路を走る特急として紹介されるが、まぁ、そういう経緯なので、ご容赦を。
(山陰本線)
\ ーー(山陰線ホーム)
\ /
ーー梅小路貨物駅ー*ーーー*ーー*ーーーー(特急ホーム)
/ \ /
(上り特急用)ーーーー>ーーーー)/(ーーーーーーーーーーー=ーー*ーーーー>ー(上りホーム)
(上り各停用)ーーーー>ーーー)/(ーーーーーーーーーーーーー=ーーーーーー>ー(上りホーム)
(下り各停用)<ーーーーーー)/(ーーーーーーーーーーーーーーー=ーーー<ーーー(下りホーム)
(下り特急用)<ー*ーーー)/(ーーーーーーーーーーーーーーーーー=ーー<ー*ー(下りホーム)
\ / \__/
向日町 <ーーーーーー*ー
電車基地 京都駅
Webmasterは紀勢本線沿線住民であった。紀勢本線では、1973年まで蒸気機関車が使われており、結構鮮明な記憶がある。「ポゥーォッ」が刻み込まれている。
今から35年くらい前である。駅で蒸気機関車を見かけるのは貨物列車が多かった。もちろん、旅客列車もあったが、貨物列車は旅客列車の通過待ちで駅に3本ある線路のうちの真ん中の線路で待っていることが多かった。煙突にはなぜか四角い箱のようなものがくっついていたが、その後20年以上たって、それが火の粉や煤煙を防止する装置であることがわかった。列車によってはなぜか機関車が逆向きに列車を引っ張ってきた。これもその後30年近くたってわかったことだが、紀勢本線には機関車の向きを変える転車台の装置が少なく、一部の近距離列車は機関車が逆向きのまま使われたようだった。
「ホームの”地層”に歴史を見る」にも書いたように、当時のプラットホームは低かった。それに対して蒸気機関車の動輪は大きいもので1.7m以上もあった。そんなわけで、身長が1mにも満たなかった未就学児のWebmasterには、たとえホームの上からでも見上げるように大きかったことを覚えている。
それから、あたりまえのような話であるが、蒸気機関車は熱かった。父母か祖父にホームの上で抱き上げられたとき、手を伸ばして蒸気機関車のボイラー部分(運転席の前の丸い筒部分)に手を伸ばそうとしたが、熱くて手を近づけることができなかった。どうしてそんなに熱かったのか、2〜3歳児には理解できなかった。
そんな蒸気機関車も小学校に入る頃には赤い箱形のディーゼル機関車に取って代わられ、その赤い箱形機関車も中学生になるころにはヒゲを生やした青い電気機関車になった。大学生になる頃には機関車そのものがなくなり、今や京都-大阪間30分の「新快速」として疾走した電車が青緑に塗られて走っている。
古いものつながりで、今日は考古学である。
駅のホームで電車を待っていると、向のホームの足下がやけに複雑なことに気づくときがある。比較的最近の駅や、古い駅でも新設されたホームはすっきりしているのだが、古い路線の古い駅の旧市街地側のホームの真ん中あたりは、「地層」が形成されていることが多い。
右の写真の場合、まず一番下にレンガ層が確認できる。明治から昭和にかけて、機関車が客車を牽いていた時代のホームである。昔の客車には、低いホームからの乗降を考慮して、出入り口にステップがつけられていた。ホームから1段分のぼって客車の最初のステップに達するイメージである。
高度成長期になると、そのような客車列車も数少なくなり、ディーゼルカーの時代がやってきた。ディーゼルカーにもステップはついていたが、より乗り降りしやすくするためにホームとディーゼルカーの最初のステップ面がだいたい合うくらいに合わせてあったと思う。この時代のホーム面が右の写真でも確認できる。レンガ層の上にコンクリートブロック状のものが敷かれてホームのかさ上げが行われ、第二層を形成している。特急電車や地方部を走る電車も、だいたいこのホームの高さがちょうどである。
最下層のレンガ層と第二層を比べると、レンガ層が写真左で途切れているのに対し、その上の第二層は左へと続いている。これは最初にホームをつくってから、ディーゼルカーが走り始める時期までに、ホームの延長を行って長い列車に対応したものと思われる。
その後さらにディーゼルが電車化されることがある。特に大都市圏向けの電車は電車の車両内に段差のないフラットな構造であり、ディーゼルカーに比べるとさらに床面が高い。これに合わせたホーム面が右の写真でいえば現在のホーム面である。さらにもう一段かさ上げされ、第三層を形成している。
右の写真でも写真中央部から右にかけて、ややその兆候が見られるが、最近の「地層」が水平であるにもかかわらず、下の方の古い「地層」が波打っていることがある。これは軟弱な地盤の上につくられたホームが、長い年月の間に部分的に沈下したり、しなかったりしたためにできるものである。大阪市内の駅を観察すると時々見かける。
このように、駅のホームは、いったん造られると、その後何年にもわたって改修を重ねながら、1世紀以上も使われ続けるのである。こういう工業製品はあまり他に例がない。土木構造物は比較的超寿命のものが多いが、その中でも長い方ではなかろうか。
先日の公共放送の朝のニュースで、松本では機関区の汽笛が生活の一部になっているという話が紹介されていた。「汽笛」という言葉も、もはや死語となりつつあるが、いくつかの蒸気機関車の保存路線の沿線や、蒸気機関車を保存している博物館の近くでは、今なお現役の汽笛の音を聞くことができる。
Webmasterの学生の頃のアルバイト先がこの博物館の近くであった。時々、かすかに"ポゥーォッ"と聞こえてきて、なんだかとてつもなく懐かしい気分になったことを覚えている。もちろん今もこの博物館は健在である。この博物館に子供を連れて行くと面白い光景と現象が見られる。
この博物館では、動態保存の蒸気機関車が客を乗せたトロッコを牽いて博物館構内をいったり来たりしている。夕方になるとこの機関車をトロッコ乗り場から、まず転車台というクルクル360度回転する線路に乗せて向きを変え、扇形の車庫にしまう。このとき、止まった状態から動き出す前には必ず例の"ポゥーォッ"とやるわけだが、およそ子供達が生まれてから聞いたことのないような大音量である。泣き出すかと思いきや、大半の子供はその瞬間、石のように固まってしまう。次の瞬間、血相を変えて母親にしがみつく。中には自分の親かどうかを確かめる余裕もなく、近くの大人にしがみつく子供もいる。固まったまま、チビっているのではないかと思われるような子供もいる。
あとは、家に帰って寝るまで、子供が口を開くと「ポゥーォッ」である。汽笛一声、脳裡に刻まれたことは間違いない。
大阪市内で会議があって、その帰りのことである。京橋という東側の拠点駅から郊外へ延びる通勤・通学路線のJR学研都市(片町)線の夜21時。帰宅の会社員等々が主体の車内に数人、また数人、小学生のグループが乗っている。朝の都心方向への電車には、私立の小学校に通うランドセル姿の小学生を見かけることは珍しくない。だが、21時である。しかもランドセル姿ではなく山登りのようなリュックを背負っている。
どうやら、塾帰りのようである。大きなリュックのいくつかは、塾のマークとおぼしき印が付いている。郊外へ走ること約15分、20分、グループごとに降りてゆき、最後のグループは30分以上乗っていた。
自宅最寄り駅で改札から外に出ると、路線バス乗り場に馬のマークの付いた塾の送迎バスが到着。数人の小中学生が降りてきた。本来の学校が終わって数時間、第二の学校で勉強してきた帰りの風景である。
さぼりながら予備校に通ったことはあるものの、塾に通ったことのないwebmasterには実感しがたい事実だが、これが現実のようである。webmasterは小学校が終わると”野放し”であったし、午後9時、10時にはすでに寝屋の中でまぶたの裏に見える不思議な色つき模様を楽しんでいた。昨今の子供は大変である、というか、小中学校がニーズに合っていないのか。
教育論はともかく、夜の9時、10時に確実に「通学」の帰宅交通が発生している。