都構想の陰で進行する大阪長期衰退の始まり(第4話-東海道VS中山道編)

以下の話の続きである.
第1話-新幹線偉大なり編
第2話-産業振興vs交流編
第3話-他の交通機関編

今回は東海道新幹線の影響のお話しである.太平洋ベルト地帯に位置する都市や地域に住んでいる人にとっては,新幹線は当たり前の交通機関であり,それがどんな影響があるのか…なんて,ほとんど考えたことすらないと思う.あって当たり前の交通機関.それだけに,大阪および京阪神地域では新しい交通機関の整備については意識が薄いようで,気がついたときには手遅れになりそう(と言うか,既になっているかも—いちいち逆ギレしないでね).

さて,昔々,その昔,新幹線もなければ高速道路も鉄道もない時代.街道を自らの足で歩くか,お金があるなら駕籠,あるいは沿岸航路という時代.東京-大阪間2週間という時代が下の図.

和歌山や徳島,あるいは富山や金沢といった都市が全国屈指の大都市だった理由はここにある.つまり,沿岸航路沿いの都市だったということ.このころは瀬戸内海も(徒歩に比べて相対的に)高速大量輸送軌間の交通路として使われていたため,その奧にあった陸地との接点である大阪は正に交通の要衝.繁栄するだけの地の利を備えていた.その後の鉄道整備では,瀬戸内海が便利すぎて,四国や中国地方西側,九州東側の鉄道整備が遅れる遠因になってしまうわけだが,今回の本題は瀬戸内ではなくて東京-大阪間である.以下のお話しは,15年くらい前にThe21という雑誌に書いた記事内容ほぼそのままである.

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今でこそ東京と大阪を結ぶルートは東海道新幹線以外の選択肢が事実上無くなっているが,昔々,その昔,まだ徒歩移動が主体だったころは東海道ルートと中山道ルート(と,あとは海路)が主体であった.

そこで,旧東海道に沿った市町村と,旧中山道に沿った市町村とについて,人口を比べてみることにする.市町村人口は国勢調査開始の1920年以降なら正確なことがわかるので,その推移を図にしたものが下である.

棒グラフは沿線市町村人口の合計の実数で右側の軸で見る.オレンジ色の棒が旧東海道沿線の人口で,緑色の棒が旧中山道の沿線人口であり,両者に含まれる東京は抜いてある.東海道は途中から海路が含まれたりするので,岐阜県下に向けてのルートで計算し,集計対象は両者が合流する岐阜県下までである.

沿線の平地の広さに差があるので,棒グラフは最初から東海道ルートの方が大きく,沿線人口は多く,1920年以降増加し続けている.一方,中山道ルートについても人口は少なめであるが人口は増加している.

そこで,最初の1920年が1になるように,それぞれの人口を最初の1920年の人口で割った数字を計算して折れ線グラフをつくった.ピンク色が東海道ルートで若草色が中山道ルートである.

1920年以降,両者は増加しているが折れ線の推移に大きな差は無い.つまり,内陸だから人口の増え方が少ない,ということは無いということである.ただし,そのような差の無い状態はこの図の左半分についてである.

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さて,上の図の右半分はどうだろうか.オレンジ色の棒グラフは伸び続けているものの,緑色の棒グラフは頭打ちになる.折れ線グラフもグラフの半ばまでは差が無かったものが,段々と口を開き始める.これは何だろうか?

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そう,その開き始める時期こそが東海道新幹線の開業である.もちろん,高度経済成長も関係しているだろうが,高度成長はもう少し早く始まっている.

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あらためて全体を見てみると,この折れ線グラフの「開き始め」の時期には日本の国の形が大きく変化したことは明らかである.

つづく