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1931年の旅人(ワルシャワ0710発)

ついに放浪8日目である.1931年の旅人はどこへ向かっているのか.1週間の経路は北から南,南から北,そして東へとどう見ても放浪しているようにしか見えない.

【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)
【2日目】Paris (Lyon) 1100 – Geneve 2115 (PLM線経由,国境検問あり)
【3日目】Geneve 1022 – Milano 1802 (シンプロントンネル経由)
…<乗換>…Milano 1950 – (車中泊)
【4日目】(車中泊) – Rome (Termini) 0815
…<乗換>…Rome (Termini) 0905 – Napoli 1315(日帰りナポリ往復)
…<乗換>…Napoli 1833 – Rome (Termini) 2315
【5日目】Rome 0010 – Venice 1250…<乗換>…Venice 1540 – (車中泊)
【6日目】(車中泊) – Wien (South) 0731(世界遺産センメリング鉄道経由)
…<乗換>…Wien (Nord) 1010 – Berlin (Friedrichstraße) 2247 (なぜかポーランド経由)
【7日目】Berlin (Friedrichstraße) 0843 – Warsaw 1835

さて,次はワルシャワ発の経路で印が付いているものを探すと,えっ,これだ.行けるのか?

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実質左端の1本しか列車がない.ワルシャワ朝7時10分発,モスクワ翌日10時25分着の急行列車だ.国境のNegorelojeという駅で中央ヨーロッパ時間から東ヨーロッパ時間に切り替わるとともに,3時間近くもの停車になっている.ロシアの入り口でもある.1931年だと既にベラルーシはソ連に加盟していたと思うので,国境検問が厳しいのはもっと手前のはずだが,どうしてこんなに長時間停車しているんだろうか.

ポーランドは軌間1435mmの標準軌,ベラルーシとソ連は軌間1520mmの広軌なので,どこかで乗換えさせるか客車の台車交換をしているはずなのだが,この時刻表だけではよくわからない.Negorelojeで台車交換しているのではと考えてみたが,この国境はベラルーシとソ連の間の国境である.ベラルーシは1800年頃までにロシア帝国の占領下に入り,1871年にワルシャワ〜(ベラルーシ)〜モスクワの鉄道が完成した後,第一次世界大戦でドイツの占領,独立などを経て1922年にはソ連に加盟しているので,最初からベラルーシは広軌鉄道だろう.ということで,単なる厳しい国境か?

ついに社会主義国のソ連に突入してしまった.この旅人は自由に国境を出入りできるような人だったのか?

スパイ?
スパイにしては足跡残しすぎだが…

【8日目】Warsaw 0710 – (車中泊)(国境で標準軌→広軌の台車交換?)
【9日目】(車中泊)- Moscow 1025

#2017/4/9追記
Negorelojeはベラルーシとソ連の間の国境ではなく,Minsk郊外の地区名のようである.Minskまでは標準軌で走行し,Minskで台車交換をするらしいと言う話もあるし,国境のブレスト中央駅構内で交換するという話もあるし,イマイチ正確な情報は不明.

初夢鉄道2016(地方創生編)

こんな夢を見た.

2015年春に北陸新幹線が出来た後,ずいぶん金沢が注目されてにぎわったせいもあり,地方創生に新幹線は有効だという社会的認識が形成されるきっかけとなった.翌年,北海道新幹線が函館市の北方まで出来た際も,函館まで新幹線で行って道南観光をした後,千歳空港アウトという観光ルートが一般的になり,こちらもそこそこにぎわった.

妙なプロジェクトに金を出すよりはこっちに出した方が確実だという話になり,財務省の査定は新幹線とそれがらみの案件は通りやすくなった.いわゆる整備新幹線も残工事の完成は時間の問題と言うことがわかってきたため,「新」整備新幹線の策定,つまり基本計画線のうち,有望な路線や区間を新たに整備計画にしようかという話になってきていた.

ある程度地域バランスをとりながら,数路線区が取り上げられ,整備計画になるとともに具体的な工事の段取りについても着手された.これまでの整備5線は昭和40年代策定で半世紀以上かかって完成していたため,時間のかかりすぎだと言うことを反省し,現実的な時期に完成できるように資金計画が練られた.新たな整備計画線は,そこそこ客数が多い区間や大都市部における区間など,沿線開発も重視しながらも実際の利用客数がある程度見込める区間が選定されている.

一方,リニア新幹線については相変わらず各種の申し出—名古屋以西の区間について何らかの公的資金を投入して早期全線完成するための各種の案など—については,断り続けていた.東京大阪間の鉄道の影響は非常に大きいので,このような態度を受け,企業の大阪からの流出は大きくなり,東海道新幹線の客数の名古屋を境に多段落ちが激しくなってきており,東海道新幹線の客単価が下がり始めていることが幹部の気になり始めていた.

北陸新幹線の敦賀以西のルートについては,一時期大幅な遠回りの提案もなされたりしたが,いわゆる小浜ルートの変形である京都経由案が現実視され,実際にそのようなルートで実現した.東海道新幹線へ京都から乗り入れる件についても例のごとく運営会社から突っぱねられたため,京阪間は淀川の南側を経由して大阪に達するルートとなり,山陽新幹線との直通運転が実現した.あれほど北陸新幹線とのシステム統合の費用ガーと叫んでいた割には,あっさりと東海道山陽新幹線と北陸新幹線系統のシステム統合が行われた.これにより,東海道新幹線経由の客はさらに減少することになってしまい,悩ましさを増した.あまり急がない客や北関東の客は,大地震をおそれてなるべく北回りで移動しようとする人が増えている.山陽新幹線沿線と直通することで北陸新幹線沿線への移転を考える企業も増えている.

リニアの工事は事前から言われていたように,南アルプスで難工事になったが,何とか当初予定通りの完成にはこぎ着けた.2027年秋には名古屋まで開業したが,東京側のターミナルが品川,西側が名古屋のため,北関東から関西に至るには東京駅と品川駅と名古屋駅で計3回もの乗換が必要になり,少なからぬ客が乗り換え無しの北陸新幹線に流れている.東海道新幹線での収益で名古屋開業時の借入金を返済し,大阪延伸工事をするつもりだったが,厳しい状況になりつつある.大阪の企業が中京圏に移転する例があるのが多少の救いであった.

「新」整備新幹線の検討がなされた際,その他にも多数の新幹線建設の要望があったが,現実的な期間内に建設可能な路線だけが選ばれたために幹線鉄道改良をどうするのかが課題になっている.フリーゲージトレインを当て込んでいたが,なかなか使い勝手の良い設計にすることができなかったため,FGT特急が走っている区間はかなり限定的であり,結局在来線改良もしなければFGT特急を走らせることも出来ないという話になった.このような背景もあり,全幹法の暫定整備手法の規程を台車の重いFGTをも考慮した枠組みに改正されることとなり,暫定整備手法の適用条件もかなり緩和されることになった.

…というところで目が覚めた.新年おめでとうございます.

1931年の旅人(ベルリン0843発)

1931年の旅人の放浪7日目である.以下がこれまでの推定経路だが,「乗り鉄」と断言してもいいのではないかと思う.

【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)
【2日目】Paris (Lyon) 1100 – Geneve 2115 (PLM線経由,国境検問あり)
【3日目】Geneve 1022 – Milano 1802 (シンプロントンネル経由)
…<乗換>…Milano 1950 – (車中泊)
【4日目】(車中泊) – Rome (Termini) 0815
…<乗換>…Rome (Termini) 0905 – Napoli 1315(日帰りナポリ往復)
…<乗換>…Napoli 1833 – Rome (Termini) 2315
【5日目】Rome 0010 – Venice 1250…<乗換>…Venice 1540 – (車中泊)
【6日目】(車中泊) – Wien (South) 0731(世界遺産センメリング鉄道経由)
…<乗換>…Wien (Nord) 1010 – Berlin (Friedrichstraße) 2247 (なぜかポーランド経由)

次の行程はベルリン発だ.そろそろ帰路につくかと思いきや…あった.これだ.

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ん?
ワルシャワ?…あれ?…昨日ポーランドをわざわざ遠回りしてベルリンまで来たのに,ワルシャワに行くなら昨日の行程の途中で降りて乗り換えた方が早かったのでは???

ベルリンを朝8時43分に出て,ワルシャワには18時35分着.よく見ると左隣に急行(EXP)が似たような時間帯に走っているのに,わざわざ値段の高そうな贅沢(luxe)列車に乗るわけね.きっとこの旅人はお金持ちだったんだ.

途中経路はさほどめぼしいものはなくて,ほぼ真っ直ぐ東である.ベルリンに行くのが遠回りだったと思ったが,ベルリン自体が遠回りなのね.しかし,なぜワルシャワ?

そういえば,数年前にアムステルダムから乗った列車はベルリン経由で行き先はワルシャワだった.時間的にはアムステルダムが夕方発,ベルリンが翌朝だったので,この1931年の旅人が乗った列車の「末裔」の列車だった可能性が高い.

さらに,このアムステルダム発の列車に連結されていた一部の客車は,さらに東のミンスク(ベラルーシ)行きという列車だったが,上の時刻表に「Stolpce」という駅名が見え,これはミンスクの50-60kmほど手前の都市のようだ.(そして,終着駅のNiegorelojeという駅は,ロシアとの国境手前の駅のようだ.)ますます「末裔」の列車だった可能性が高い.

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ということで,行程はこうなった.今ならこんな経路

【7日目】Berlin (Friedrichstraße) 0843 – Warsaw 1835 (今日は珍しく単純な移動)

 

1931年の旅人(ウィーン1010発)

1931年の旅人の欧州放浪の旅6日目である.これまでの推定経路はこうである.夜行便に乗っているので,実はすでに6日目に突入している.

【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)
【2日目】Paris (Lyon) 1100 – Geneve 2115 (PLM線経由,国境検問あり)
【3日目】Geneve 1022 – Milano 1802 (シンプロントンネル経由)
…<乗換>…Milano 1950 – (車中泊)
【4日目】(車中泊) – Rome (Termini) 0815
…<乗換>…Rome (Termini) 0905 – Napoli 1315(日帰りナポリ往復)
…<乗換>…Napoli 1833 – Rome (Termini) 2315
【5日目】Rome 0010 – Venice 1250…<乗換>…Venice 1540 – (車中泊)
【6日目】(車中泊) – Wien (South) 0731(世界遺産センメリング鉄道経由)

ウィーンに朝着いた.次はどこへ行くのだろうか? あった.これだ.赤い印の列車の時刻は,下から上へと見てゆく.

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夜行列車でウィーンに着いたら,滞在もそこそこに,10時10分発の列車に乗っている.次の目的地はベルリンだ.ドイツの首都.まだ第二次大戦前なので,ドイツは分断されていない.

この列車の経路はやや複雑だ.ウィーン(Vienna)を出て,そのまま北に向かってプラハ経由でベルリンに向かうかと思いきや,5時間後の15時36分発になっているBohuminはウィーンの北東方向のチェコの都市であり,ポーランド国境の都市だ.もちろん,プラハ経由でベルリン行きの列車も走っているが,そういうチョイスではないようだ.

さらに進んで,18時6分着のBreslauは現在はポーランドの都市であり,ここでほぼ真西のドレスデン方面行きと北西方向のベルリン行きに列車が分割(あるいは乗換)される.この都市のある地方はドイツ領だったりポーランド領だったりしたところかな?ベルリン方面行きは18時13分に出発し,この後は北西方向に真っ直ぐ進んで22時47分着である.

ということで,6日目の行程はこうなる.都市での滞在がほとんど無く,乗ることだけが目的のような行程である.

【6日目】(車中泊) – Wien (South) 0731(世界遺産センメリング鉄道経由)
…<乗換>…Wien (Nord) 1010 – Berlin (Friedrichstraße) 2247 (なぜかポーランド経由)

まだ,1931年の乗り鉄の旅は続く.

1931年の旅人(ローマ0010発)

1931年の旅人の旅程5日目である.これまでの経路はこうであった.

【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)
【2日目】Paris (Lyon) 1100 – Geneve 2115 (PLM線経由,国境検問あり)
【3日目】Geneve 1022 – Milano 1802 (シンプロントンネル経由)
…<乗換>…Milano 1950 – (車中泊)
【4日目】(車中泊) – Rome (Termini) 0815
…<乗換>…Rome (Termini) 0905 – Napoli 1315(日帰りナポリ往復)
…<乗換>…Napoli 1833 – Rome (Termini) 2315

次はローマ発の行程を探す.これだ.

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次はVienna,つまりウィーンだ.ローマを0時10分に出発,ウィーンに朝7時31分着.つまり再び夜行便だ.まともな宿泊をしようとしていない.正に「乗り鉄」の発想である.ボローニャを通過するのが翌朝,昼12時50分にはベニスに到達するが,ここで3時間ほどの間を開けて,乗り換えるようになっているようだ.Mestreで降りてもいいが,あんなところで降りても大したものもないので(今ならゴムタイヤトラムが走っているが),ベニスまで行っただろう.

ベニスを15時40分に出ると,進路を北西方向にとり,ウィーンに翌朝7時31分に着く.車中2泊目だ.体がかゆくならなかっただろうか.

この列車は別のページにも時刻が掲載されている.下から上にたどる.

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これによると,ウィーンに到着する前に「Semmering」という文字が見える.どうやらこの列車は,今や世界遺産登録されているゼメリング鉄道を通過するようだ.(冬場の早朝なので,車窓はほとんど見えないかもしれないが…)

さて,経路を整理すると,下のようになる.今ならこんなルート

【5日目】Rome 0010 – Venice 1250…<乗換>
…Venice 1540 – (車中泊)(世界遺産センメリング鉄道経由)

 

1931年の旅人(ミラノ1950発)

1931年の旅人の旅程4日目である.これまでの経路はこうであった.

【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)
【2日目】Paris (Lyon) 1100 – Geneve 2115 (PLM線経由,国境検問あり)
【3日目】Geneve 1022 – Milano 1802 (シンプロントンネル経由)

次はミラノ発の行程だ.あった.

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次の目的地はローマか? ミラノを朝9時半発の列車と夜19時50分発の2つの列車に印が付けてある.さて,どっちに乗ったんだろうか.その答えは別のページにあった.これがそのヒントだ.

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ローマ朝9時5分発の列車に印がしてあり,ナポリ13時15分着.そしてナポリを18時33分発の列車でローマまでの部分を赤く塗っている.つまり,ミラノに宿泊して翌日の昼行便でローマに行くことも考えたが,そのまま夜行便に乗り継いで翌日ローマで乗り継ぎ,ナポリまで行って数時間過ごした後,ローマまで引き返したのではなかろうか.

3日目の行程を修正して,4日目の行程はこうなった.ジュネーブからミラノまでの列車の検討過程で×印を着けた列車があったのも辻褄が合う.×印の列車だとミラノ発の夜行便に間に合わない.ミラノからローマまでは,今ならこういうルート.ローマからナポリは今ならこういうルート

【3日目】Geneve 1022 – Milano 1802 (シンプロントンネル経由)
…<乗換>…Milano 1950 – (車中泊)

【4日目】(車中泊) – Rome (Termini) 0815
…<乗換>…Rome (Termini) 0905 – Napoli 1315(日帰りナポリ往復)
…<乗換>…Napoli 1833 – Rome (Termini) 2315

こりゃぁ,相当な「乗り鉄」だな.

 

1931年の旅人(ジュネーブ1022発)

1931年の旅人の旅程3日目である.これまでの経路はこうであった.

【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)
【2日目】Paris (Lyon) 1100 – Geneve 2115 (PLM線経由,国境検問あり)

次はジュネーブ発の行程を探す.あった.

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次の目的地はミラノだ.パリからの列車も印が付けられており,ジュネーブで乗り換えてミラノに深夜着の便か翌朝着の便も検討したのではないかと思われるが,結局はジュネーブを10時22分発の急行で約8時間.ミラノに夕方18時02分着という便をチョイスしたようだ.12時50分発のものには×印が付いているので,何らかの理由でこれも止めたようだ.

経路は,ジュネーブからローザンヌ,ブリーク(Brig),ドモドソーラ(Domo d’Ossola)経由でミラノに達しているので,どうやらシンプロントンネルを越えたようだ.1931年の旅人は当時の世界最長のトンネルも通過した.シンプロントンネルは1905年には開通しており,1921年には複線化もされている.

トンネルをはさむブリークからドモドソーラまでの25miles=約40kmに1時間ほどもかかっている.トンネルは約20kmなので,トンネルを通過するだけで30分ほどもかかっていたことになるから,今の感覚なら青函トンネルを在来線特急で通過するような感覚か?

3日目の行程はこうだった.今ならこんなルート
【3日目】Geneve 1022 – Milano 1802 (シンプロントンネル経由)

1931年の旅人(パリ1100発)

1931年の旅人の1日目は,このようであった.
【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)

次はパリから出発している列車の赤印を探すことにする.そうすると,見つかった.これだ.

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パリのリヨン駅08時05分発と11時ちょうど発との2つの列車に印がしてあり,左側にはパリとジュネーブに赤線が引いてある.次の目的地はジュネーブだ.

今ならTGVで東に向かってストラスブールへ,そこからバーゼルまで200km/h対応の高速在来線を南下し,そしてスイス国内を南下が最速か?.あるいはパリからリヨンまでTGVで南下し,そこからローカル線でジュネーブという経路だろうか.

旅人の経路は,パリからディジョンを経由しそのままPLM線(*)でBourg,東に向きを変えてCuloz,スイスに入ってジュネーブという経路のようだ.今なら半日もあれば十分到達できるが,この頃は1日がかりだ.

(*) PLM線…東海道新幹線に対する東海道本線の関係と,最初のTGVとPLM線の関係は,それぞれ高速鉄道と並行在来線.

リヨン駅08時05分発はEvian発着,11時発がジュネーブ行きで,両方に赤印がついているが,たぶん想像するに,早起きできたら08時05分発で出発し,どこかで途中下車して後続の11時発がジュネーブ行きに乗るつもりではなかったんだろうか.11時発の列車はスイスとの国境駅で約1時間の停車をしている.国境の検問があった時代だ.10時間あまりかけてジュネーブ着.

ということで,1931年の旅人の2日目は,このようだ.今ならこんなルート
【2日目】Paris (Lyon) 1100 – Geneve 2115 (PLM線経由,国境検問あり)

1931年の旅人(ロンドン1100発)

研究資料を集めていると,時として思いがけない出会いがある.今回は85年近く前の旅人の足跡と出会った.その足跡が残されていたのはこれである.

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おなじみ,トーマスクックの時刻表.ただし1931年11月号である.復刻版ではなくて本物だ.入手先を書いてしまうとミステリーツアーにならないかもしれないので,内緒である.なお,ここ1〜2年,世界中から古い時刻表を集めまくったので,今や古い時刻表はめぼしいものはほとんど手に入らなくなってしまった.「犯人」は私かもしれません.すいません.

この古い時刻表には所々に列車に印がしてあり,どうやら自分の旅程がわかるようにしてあるようだ.とすると,全ての印をつけた列車をつなぎ合わせると,1931年の旅人の移動経路がわかるはずである.

印のついた列車を端から端まで調べてみると,どうやらスタートはここのようである.

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ロンドンのビクトリア駅.午前11時ちょうどに出発する列車に赤字印がしてあり,この列車に乗ると,ドーバー桟橋に12時35分着.ここから船に乗る.

上の時刻表をよく見ると,左上に「THROUGH SERVICE」と書いてある.どうやら航送便だ.つまり,船に乗るのは客じゃなくて,列車ごと乗るということのようだ.ただし,夜行列車だけで,昼行便は乗換だった模様.

カレーから大陸に上陸し,夕方18時10分には,パリの北駅に着くようだ.列車名にGolden Arrow号も見える.赤印はここまで.列車はそのまま今はあまり使われていない短絡線を使ってリヨン駅まで行くが,旅人は北駅までのようだ.今なら,こんなルート

ここで1931年の旅人の1日目が終わった.明日はどこへ?
【1日目】London (Victria) 1100 – Paris (Nord) 1810 (ドーバー海峡連絡船)

日本の公共交通政策が欧州と真逆な件

欧州では,都市間交通は自由化されて競争状態に置かれているが,都市内交通は運輸連合が組織されるなど保護状態&需給調整状態にある.ローカル線も地域経営が当たり前.

日本では逆に,都市内交通は2000年以降は自由競争状態が原則に置かれて,運輸連合を組織しようとすると「談合組織だ!」と言われてしまうというガラパゴス状態.ローカル線も「自由競争」の元に放置状態.

都市間交通についても,航空はともかく,新幹線については地域独占(路線独占)が許されて,公設民営の整備新幹線であっても形式的な入札すらせずに最初から運営事業者が決まっているという需給調整状態.これもガラパゴス状態.

これでええんか?